森の入り口

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ピアニストIlze Graubiņaについての覚え書き

J.S.バッハのイギリス組曲6番ニ短調前奏曲が大好きだ。厳かに轟く低音から始まり、両手で紡ぎ合いながら上下する音型、短いadagioを挟んだ後の劇的なallegroは本当に素晴らしい。一つの悲劇的な英雄譚を聞いているような曲だ。ヴェデルニコフアンジェラ・ヒューイットリヒテルの演奏が特に好きだが、隙あらば自分好みのまだ見ぬ演奏に出会おうとSpotifyで精力的に探していたある日、この録音に出会った。 

決して派手では無いが芯の通った冒頭のDの音から心を掴まれてしまった。


English Suite 6 - 1 - Prelude

Ilze Graubiņa(イルゼ・グラウビン)という人の録音らしい。併録のフランス組曲6番と、トッカータBWV566の他に演奏は見つからなかった。

 

前奏曲たった一曲で、このピアニストに心を鷲掴みにされてしまった。一体どんなピアニストなのか。英語版のWikipediaを読んでみると、ラトヴィア出身の女性ピアニスト(故人)らしかった。しかし大まかな経歴しか書かれていなかったので、原始的に他国のウィキを横断したりロシア語及びラトヴィア語のサイトを当たってみた*1。この記事では、いつの日かこのピアニストの演奏に心打たれて彼女について知りたくなってしまった人のために、日本では全く資料のないピアニストIlze Graubiņaについての調べ得る限りの情報を記しておく。

 

Ilze Graubiņa(1941-2001)

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「子供の頃からバッハはお気に入りの作曲家の一人でした。私はこの作曲家の多くの作品を学生コンサートやコンクールで演奏しましたし、教師たちはこの偉大な作曲家が内包する音楽への愛を私に教え込んでくれました。」*2

イルゼ・グラウビンは1941年11月8日にラトヴィアの首都リガで生まれた。彼女の父Jēkabs Graubiņš(ヤーコプ・グラウビン)は200曲もの民謡をはじめ、劇音楽や声楽曲を生み出した作曲家だ。現在でもラトヴィアで歌われているバースデーソング"Daudz baltu dieniņu"を作ったり*3と、この国では馴染み深い作曲家であるようだ。母のErika Graubiņaはピアノ教師であった。ラトヴィアは1940年にソ連に併合されたが、翌年の彼女が生まれた年にはナチス・ドイツによって占領されるなど、激動の時代であった。さらに、ラトヴィア含むバルト三国は1944年に再びソヴィエトに併合される。不安定な政情の中で1950年に父ヤーコプは戦時中の反逆行為の罪で逮捕され、収容所で5年間を過ごす。恐らく、音楽一家に生まれ育った彼女にとって、ピアノを弾いて生きていくことは必然だったのだろう。イルゼは1959年にリガのエミール・ダルツィンス音楽学校を優秀な成績で卒業すると、名門のモスクワ音楽院に入学する。そこでは、ギレリスのライバルとも称された高名なピアニストのヤコフ・フリエールに師事する。フリエールは主にロマン派を得意としていたようで、代表的な教え子にはミハイル・プレトニョフがいる。フリエールは彼女についてこんなコメントをしている。

「私は彼女の音楽が持つ独創性に深い感銘を受けた。彼女は真に探究心に溢れた音楽家で、彼女の才能に魅了されたし、特に和声や創造力については並外れたものがあった。」*4

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イルゼは19歳の時にリガで自身初のソロコンサートを開催した。1962年には第1回ヴァン・クライバーン国際コンクールに参加するが、入賞には至らなかった。しかし、1964年に開催された第2回J.S.バッハ国際コンクールで見事に優勝を果たす。

1967年に帰国したイルゼは、母校のエミール・ダルツィンス音楽学校、ラトヴィア音楽院(現ヤーゼプス・ヴィトルス音楽院)で教鞭をとる傍らで、ラトヴィア国立交響楽団としばしば共演するなど精力的に活動する。コンクール優勝の影響もあって、彼女はロシア、リトアニアブルガリアチェコユーゴスラビアなど東側諸国で開催された音楽祭やコンサートに出演した。また、1986年には同音楽院の教授に就任している。ソ連崩壊後の1991年にラトヴィアが独立を果たすと、彼女はカナダ、フランス、イタリア、スペイン、スイスなど欧米全域に活躍の幅を広げた。1967年以降に彼女が送り出した教え子の多くは国際コンクールで優勝したり、または彼女同様に優れた教育者となった。2012年4月に彼女の生誕70年を祝した記念コンサートがラトヴィア北西部の都市ヴェンツピルスで開催*5されているのを見るに、今もなお教え子から慕われる良き教育者であったのだろう。

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1964年のコンクール優勝後、彼女はロシアのレーベルMelodiyaと組んでいくつかの録音を遺している。また、Baltasia Foundation(ラトヴィアのレーベルか?)からも死の前年にCDを出しているようだ。以下は見つけた限りの彼女のディスコグラフィーである*6

これを見ると彼女のレパートリーは、主にバッハをはじめとするバロックと彼女と同時代のプロコフィエフや祖国ラトヴィアの作曲家たちの曲のようだが、証言によるとベートーヴェンシューマンの協奏曲、ブラームスの協奏曲1番、グリーグの協奏曲やラフマニノフパガニーニ狂詩曲(下にリンクあり)、フランス印象派の作品も得意としていたらしい*7。また、シューマンに関しては1975年に彼女が開催したコンサートでクライスレリアーナを演奏したことが分かっている*8。(彼女のシューマンは聴いてみたかった…!!)上に挙げたなかで、日本からアクセスできるのはストリーミング配信されているフランス組曲とイギリス組曲の6番、トッカータとフーガBWV566だけである。

また、イルゼはしばしば室内楽にも参加しており、彼女の娘でヴァイオリニストのEva Bindere(1974-)*9とも共演しているようだ。それにしてもグラウビン家は音楽家一家である。エヴァの回想によると、母イルゼは学生への指導と自身の演奏旅行で常に忙しかったため、祖母が彼女を育て上げたという。エヴァはラトヴィア音楽院で学んだのち、ギドン・クレーメルがリガで結成した室内オーケストラであるクレメラータ・バルティカに加わるなど、世界各地で今もなお活躍している。そして、皮肉にも漸く母が娘を手助けできるゆとりができた頃には、イルゼは既に病魔に侵されていたのだ。

2001年1月24日、イルゼは59歳の若さで亡くなった。

 

イルゼ・グラウビンのキャリアの大半はソ連体制下で築かれたが、彼女の本質は体制とは反するものであったことを理解しておきたい。彼女はコンクール優勝後、国外での演奏機会に恵まれたが、祖国ラトヴィアの名を背負ってステージに立つことは許されなかった。

 

彼女の死から来年で20年が過ぎようしているが、YouTubeで彼女の名前を検索すると、2011年ごろからイルゼの演奏がいくつかアップされているのが分かる。彼女を風化させまいと弟子の誰かが、もしかしたら家族が尽力しているのかもしれない。先述のスカルラッティヘンデルラフマニノフなどがあるのでありがたい限りである。

⚪︎ラフマニノフパガニーニの主題による狂詩曲

https://youtu.be/PdojpgYoyw4

⚪︎スカルラッティの6つのソナタ

https://youtu.be/536Cy7hE_tw

⚪︎ヘンデルト短調ソナタ(14:40以降のパッサカリアは絶品)

https://youtu.be/AlZMSPNgyBQ

⚪︎バッハのカプリッチョBWV992「最愛の兄の旅立ちに寄せて」

https://youtu.be/CyRznmIAwsQ

 

恐らく日本との関わりは無かったであろうラトヴィアのピアニストの演奏に、時を超えて出会うことができるのはストリーミングの醍醐味かもしれない。