森の入り口

本を読んだり映画を観たり音楽を聴いてどうにか人のかたちを保っています

知らないうちに推しと世界を共有していた

推しと好きな曲がドンピシャだった上に全く同じ演奏を聴いていたことが分かった!!!!!!

 

まあこの1文で言いたいことは全部含まれているのだけど……

高校3年の6月の日曜日の昼下がり、偶然家の本棚で見つけた福永武彦の『草の花』を手に取って読み始めたら、時間が経つのも忘れていた。読み終わった時には窓の外はとっくに日が暮れていた。それまでの数年間、私は漬物石のように重くのしかかった悩みを抱えていたのだけど、『草の花』の主人公汐見茂思の力を借りてそれを少し脇に置くことができた。大好きな映画『善き人のためのソナタ』のラストで主人公がある本を指して「これは、私のための本だ」と断言するシーンがあるが、それと全く同じ心境だった。ずっと、世界中でこんな思いしてるのは自分だけだという思春期特有の思い詰め方をしていたが、私は汐見の手記を通して彼の体験を共有し、穏やかに自己を見つめ直すことができた。あれが、文学作品によって救われたはじめての体験だった。(勿論文学はそのためだけにあるわけではないのだが)

そのときから、福永武彦は私にとって宝物のように大切な作家になった。

以来彼の作品を読み漁り、今では絶版となった作品の多さに絶望したり、ついには全集を買うに至った経緯は以前にも書いた。

 

福永武彦は長編から短編まで数多くの作品を書いているが、一方で随筆もたくさん書き残した。(全20巻の全集のうち、14巻から20巻までは評論も含む随筆が収録されている)

講談社文芸文庫でも出ている『ゴーギャンの世界』や、処女作の『風土』からも分かるように福永は美術への造詣が深かったが、同じぐらい彼の作品は音楽と深く繋がっている。 『草の花』において汐見と千枝子を結びつけた音楽会でのショパンのピアノ協奏曲1番、『死の島』で主人公の相馬鼎が熱弁するシベリウス管弦楽曲、そもそもマーラーの「大地の歌」がモチーフになっている『告別』など、具体例を挙げればキリがない。だから彼自身がクラシック音楽に対して並々ならぬ関心を抱いているのではないかとは薄々感づいていたし、実際に随筆を読むと、音楽についての記述はたくさんあった。

「私はこのグリュミオーが大の御贔屓で、私の持っているグリュミオーハスキルのモツァルトのソナタ集は、聞きすぎて盤が傷んでしまった。」(『四つの音楽』より「春の夜のシューベルト」全集14巻所収)

私は2年近くアカウント名を「ハスキル」にするぐらいピアニストのクララ・ハスキルが大好きで、とりわけグリュミオーとのソナタは大学の頃から愛聴していた。そういうわけで、去年この記述を見つけた時は本当に嬉しかった。

福永武彦の一番のお気に入りはシベリウスのようで、まあそれは『死の島』から伝わる隠しきれない熱の感じからも分かる。

 

そんな彼の随筆に、ヴィヴァルディの「調和の霊感」や、四季でおなじみの「和声と創意の試み」について書いたものがある。

「ヴィヴァルディとか、またドイツのテレマンとか、似たようで実は違う曲を無数に作った作曲家は、バッハやモツァルトとはまた別の意味で、人を愉しませるために生れて来た天才であろう。」(『四つの音楽』より「夏の夜のヴィヴァルディ」全集14巻所収)

もう…わかる!!!!!

ヴィヴァルディは協奏曲だけで600曲近く書いているけど、よく知られているのはごく僅かだ。四季でお馴染みの「和声と創意の試み」や12曲の協奏曲からなる「調和の霊感」などと、それぞれの楽器の主要な協奏曲ぐらいだろうか。彼の作品は結構展開や和声進行が他の作品と類似していることも多くて、初めて聴く曲のはずなのにどこか懐かしかったりする。正直、バッハやベートーヴェンに比べるとインパクトに欠けるかもしれない。それでも、私は彼らと同じぐらい、ヴィヴァルディの曲が大好きだ。ヴァイオリンの音域や響きをこれ以上ないぐらい知っていて、最大限の演奏効果をもたらしてくれるし、何より様々な表情を見せてくれて聴いていて心踊るのだ。だから、福永武彦がヴィヴァルディの良さを「人を愉しませるために生まれてきた天才だろう」と書いてくれたのは筆舌に尽くせないぐらい嬉しかった。

 

ところで、4月に入るか入らないかの頃から、何故かアルビノーニオーボエ協奏曲を聴くようになった。元々マルチェロオーボエ協奏曲が大好きでシェレンベルガーの演奏で愛聴していたのだけど、同じCDに入っているアルビノーニのそれが気になるようになったのだ。それで、他のアルビノーニオーボエ協奏曲も聴きたくなって辿り着いたのが、ハインツ・ホリガーとイ・ムジチ合奏団によるイタリアバロックオーボエ協奏曲集だった。

私はニ短調という調性に昔から目がなくて、この調の曲ばかり好きになってしまう。件のCDに入っていたアルビノーニオーボエ協奏曲作品9の中のニ短調は、どこか満たされない哀しみをたたえた情感豊かな旋律が素晴らしい曲で、あっという間にハマってしまった。10日間は毎日この曲を聴いていたような気がする。今までオーボエの曲といえばシェレンベルガーが贔屓で、彼の演奏ばかり聴いていたのだけど、今回は最初に聴いた印象からかホリガーの音色がしっくりきた。

 

さて、一昨日福永武彦の、先程から何度も引用している随筆を読み直していたら、彼がイ・ムジチ合奏団のアルビノーニをとても気に入ったという記述に出会った。アルビノーニどころか、彼はヴィヴァルディを筆頭にイタリアバロックが好きだったらしい。曰く、音楽が波音のように精神を洗っていればよいと思えるようなときにはヴィヴァルディやペルゴレージコレルリのようなイタリアバロックを聴くのが良いと。彼がその文章を書いたのは1968年で、恐らく聴いたのはイ・ムジチ合奏団が同年に録音したアルビノーニの協奏曲集ではないかと予想している。何が言いたいのかというと、その録音のソリストは他ならぬハインツ・ホリガーで、私がこの10日間常に共にしていたまさにその演奏だった。

「私の精神が一種の陶酔に包まれて、半ば眠っているような、半ば起きているような状態にあり、その時音楽が悦び以外の何ものでもないためには、その音楽は優しく、やわらかく、幾分甘く幾分悲しく、深みがあり、しかもそれが持続することが必要である」(同上、「秋の夜のアルビノーニ」より)

どうも、およそ50年前に大好きな作家が耳にして安寧を得ていた同じ録音を、知らず知らずのうちに聴いて心震わせていたようだ。