忘れられた本の墓場

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エゴと狂気の二重奏:『ファントム・スレッド』感想(ネタバレあり)

ママの思い出が鮮烈に蘇る

夢の中に現れたり香りが漂う

とても強く感じるんだ

我々の近くにいて手を差し伸べている

きっと今夜ドレスを見てくれたと思う

 

最初は怖かった。

なぜこの女はこんな手段を取るのか、ここまでしなければならないほどこの男に尊厳を傷つけられ、憎んでしまったのか。確かに酷い男だった。自分勝手で、少しでも自分の世界が乱されたら癇癪を起こす。でも、そばにいれば間違いなく夢中になってしまう魅力を放ちながらも、彼は初めから危険信号を放っていたではないか。

不快感をもおぼえるような恐怖心は、自分すら忘れかけていた私のある記憶を呼び起こさせた。違う、私は彼女があの時感じた歓びを確かに知っている。

 

ファントム・スレッド』は、ラブロマンスなんて言葉では到底言い尽くせない、狂気と欲望とエゴイズムにまみれた話だった。世界の違う二人が邂逅し、己の中に招き入れ、今まで築き上げてきた世界は完膚無きまでに破壊された。全く毛色の違う愛情がせめぎ合い、混ざることなく他方を侵食し合う。それでも、互いが互いを求め合う理想の形にたどり着いたこの話は、やはりロマンスだと言わざるを得ないのかもしれない。

 

レイノルズは、ロンドンで王族や上流階級の貴婦人御用達のオートクチュールの仕立て屋を営んでいる。恐らく50代ぐらいにもかかわらず、彼の美貌は衰えず、すらりとした身のこなしに洗練された言葉遣い、そして何よりどんな女性も憧れる美しいドレスを生み出す才能に溢れている。

彼の一日は髭を剃り、髪を整え、鼻毛を抜き、靴を丹念に磨く、一連の流れるような工程から始まる。彼は常に自らの定める美学と秩序に従って生きている。燻った香りの強烈な紅茶ラプサンを好み、南部鉄器の急須でお茶を淹れる。そこには完璧な美と静寂があり、他者の介在は許されない。優雅な音楽と共に始まった彼の朝は、レイノルズの気を引こうとしきりに話しかける恋人によって中断される。彼は途端に不機嫌になり、恋人には目もくれない。同居している彼の姉シリルは、この二人がもう潮時であることを悟る。

 

姉の勧めで海辺の別荘へ息抜きに向かったレイノルズは、ウェイトレスにしては落ち着かない所作のアルマを見初める。舐めるように見つめるとはこのことを言うのかと思うぐらい、彼の瞳はアルマを捉えて離さない。スマートに彼女を夕食に誘い、ディナーの席でも相変わらずうっとりとした眼差しで穴のあくほどアルマを見つめる。レイノルズはアルマに彼女は母親に似ているのか尋ね、自分の母の話をする。彼は亡き母の記憶に取り憑かれており、その夢には母親が度々現れる。

「僕の母は芯地の中にいる」

「どういうこと?」

上着の芯には何でも縫い込める。

(中略)…胸の部分に母の髪の毛が、いつもそばにいるために。素晴らしい女性で、仕事を教えてくれた。だから離れないようにしている」

自分からデートに誘い、口説くのかと思いきやひたすら母親の話をし続ける男性は、かなり怪しく歪だ。しかし、それほど彼の母親はレイノルズの人生に大きな影響を、影をもたらした。レイノルズが初めて作ったドレスは母親の再婚のためのウェディングドレスだった。彼の別荘に飾られている写真の中の母親は恐らくそのドレスを着ている。母に捧げるために始めたドレス作りはいつしか彼の天職になっていた。

 

別荘にアルマを招くと、レイノルズは目を輝かせて彼女のためにドレスを仕立て始める。病的なまでに結びつける母親の話から、彼がアルマに母の面影を見出していることが窺われる。レイノルズがアルマのために色を合わせ、採寸をするシーンは実に官能的だ。別荘に到着してその現場を目にしたシリルは一瞬で状況を把握し、レイノルズの指示で採寸結果を淡々と記録する。

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「胸がない」

表情を変えることなく口にするレイノルズにアルマは眉をひそめる。

「知ってるわ」

「いや完璧だよ」

気を悪くする彼女に、シリルも丸いお腹は彼にとって理想の体型だと畳み掛ける。

彼らの振る舞いはまるでアルマが心を持たないマネキンのようだった。レイノルズの創作意欲を爆発させるために存在する美しきミューズ。

 

私は自分が好きじゃなかった。

なぜなら肩幅は広すぎるし、首は鳥みたいに細い。それに胸がない。腰まわりは必要以上に大きく、たくましすぎる腕。

彼の仕事に私は"完璧"だった。

自分が正しく思えた。彼の服を着る女性はみんなそう感じるのかも。

この映画の語り手はあくまでアルマだ。彼女が暖炉の前で静かに誰かに語り続ける。アルマはウッドコック邸で部屋を与えられて暮らすことになる。田舎のしがないウェイトレスだった彼女は一夜にしてロンドンの名士に引き取られ、美しいドレスを着る毎日を送ることになる。まるで『マイ・フェア・レディ』だ。まあ全然そんなことはないのだけど。彼は、それまで自分に自信が持てずひっそりと暮らしていた女の元に突然現れ、彼女が世界で一番美しい女であるかのように見つめる。きっとレイノルズは彼女にとっては王子様も同然だった。ブリストル405に颯爽と乗って迎えに来た王子様。(車に全然関心のない私でも、彼の運転するブリストル405のクラシカルでノスタルジーな佇まいには哀愁すら覚えながらも魅了された。)

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初めは彼のミューズ、モデルとして共犯者だったアルマも、いつしか彼と関係を持つようになる。それでも恋人同士の甘い時間は訪れない。結ばれた次の朝でさえレイノルズはいつものように静かな朝食を迎え、あまつさえパンにバターを塗るアルマの音がうるさいと冷たい態度をとる。レイノルズが優しく甘くなるのはほんの数日間、彼が仕事で疲れきって何もできなくなったときだけだった。

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彼はまるで赤ちゃんのよう 甘やかされた赤ん坊

 そういう時の彼はとても優しいの

素直だし

アルマはどうにかレイノルズとより深い結びつきを得ようと画策する。彼ともっと親密になるために、シリルの制止を振り切ってサプライズディナーを企画する。しかし、自分の日常を乱されたレイノルズは烈火のごとく怒り狂い、酷い言い争いになる。

あなたのルールや壁やドア、人々、あなたのお金や服や何もかもがこのゲームよ!

全部ゲーム!

とにかく平穏で静寂を守るためにレイノルズが作り上げてきた城の中で、アルマは悲鳴をあげる。この世界では彼女の意思は尊重されず、彼が振り向いてくれるほんのわずかな時間を待つことしかできない。

ただ自分の邪魔をせずにミューズとして自分の欲望を満たす存在でいてほしいと願うレイノルズと、恋人なのだからより近くで、常に優しく必要とされたいと願うアルマのエゴはぶつかり合う。アルマはアルマでもう限界を超えていて、レイノルズにドレスを依頼した王女に対して自分は彼の恋人だと名乗ったりする。恐らく彼女の階級を考えるとこれはとんでもなく大胆な行動だろう。

 

レイノルズの心を手に入れるためにアルマが選んだのは、彼の紅茶に毒キノコから採取した毒を混ぜることだった。嘔吐し、あっという間に倒れたレイノルズを彼女は甲斐甲斐しく看病する。往診医に「ウッドコック夫人」と呼ばれシリルよりも先に返事をする。シリルの手を借りずレイノルズを自分一人で介抱し続ける。もっとも、シリルはレイノルズが倒れた際に損傷したドレスの修復に追われてそれどころではなかったのだけど。かつてレイノルズの美しいドレスの品位を落とすような振る舞いをした貴婦人に怒りドレスを奪い返すほど、彼の作品に自己を同一化していたアルマはもはやいない。果たして、苦しむレイノルズの視界の隅にはウェディングドレス姿の彼の母親が佇んでいた。弱々しく、母に問いかけるレイノルズ。しかし、アルマが部屋に入ってくると母の影は消えた。優しく微笑みながら自分を看病してくれるアルマを、レイノルズは憑き物が落ちたかのように優しい眼差しで見つめる。この瞬間、彼の中でアルマは母親を凌駕する存在になった。

翌朝、具合の良くなったレイノルズは蕩けるような表情でアルマにプロポーズする。この「死の家」に囚われた呪いを解くために。彼は漸く母の呪縛から解放されたのだ。

 

しかし、活発でレイノルズと遊びに出かけたり楽しい時間を共有したいアルマと、仕事以外の趣味も持たず家に篭り続けるレイノルズには衝突ばかり起きる。家を飛び出したアルマが気になって仕方なく渋々探しに行って、徐々にペースを乱されるレイノルズ。再び些細なことで癇癪を起こすようになった彼は、馴染み客が贔屓の店を変えた話を聞いて爆発する。ドレスは彼の愛の結晶であり、それを無下にされたり認められないのは彼の愛が見放されたもの同然だった。「彼女と結婚したのは大きな過ちだった」とシリルにこぼすのをアルマは聞いてしまう。不安定なレイノルズの中でまたもアルマはドレスに、彼の母の影に脅かされる。

 

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望むのはただ、優しく子供のように自分に身を委ねてくれるレイノルズだけ。アルマは再び毒キノコを、今度は削らずに躊躇なくそのままの姿で調理する。キノコを入れたオムレツを差し出し、わざと音を立ててレイノルズが嫌がるように水を注ぐ。彼は何の疑いもなく、キノコを口にする。

あなたには無力で倒れていてほしい

救いがなく、優しく、素直に

助けるのは私だけ

そしてまた強さが戻る。死にはしない

死にたいと願ってもそうはならない

少しおとなしくなるだけ

倒れる前にキスをしてくれ、と願うレイノルズに応えて二人は深く口づけする。

 

対等な恋人関係でいたかったアルマの真っ当な望みも、レイノルズの城の中で歪められいつしか自分がレイノルズを支配したいというものに取って代わる。いや、そもそも彼女が望んでいた関係は対等ではなかったかもしれない。疲弊して何もできない幼い子供のようなレイノルズに甘えられ甘やかす一種の共依存。彼女が夢見たのは弱いレイノルズだ。二度目に毒を盛られ、苦しみながらもこの上なく優しい目で彼女を見つめるレイノルズと、慈愛に満ちた表情で満足したように彼を眺めるアルマ。このシーンを見たとき、私は何年も前の光景を思い出して「あっ」と声をあげそうになった。

 

昔、その数日前に喧嘩した恋人と仲直りでディズニーランドに行ったときだった。仲直りはしたもののどこかギクシャクしながらアトラクションに並んでいたら、彼が吐き気を訴えたので慌てて外に出た。本当に苦しそうだったので、必死で救護室に連れて行って、薬や飲み物を調達した。薬を飲んだ甲斐もあって漸く落ち着いたので、ほっと息をついて園内のベンチに並んで腰掛けていると、不意に頭を優しく撫でられた。彼の方を向くと、今までに見たことがないような優しい目で私を見つめていた。あまりに溶けそうな眼差しだったから、時が止まったように感じたのを今でも覚えている。それまでの気まずい空気は一掃され、甘い雰囲気の真っ只中にいた。彼とはその後の二年近く付き合っていたけれど、あれほどまでに双方に慈しみの情が溢れるような時間は二度と訪れなかった。私の場合は人為的なものではなかったけれど、不謹慎を承知でもう一度あの瞬間にいられたらと思いを馳せることはあった。だから、私にはアルマのあの行為を狂気の結果と切り捨てることはできない。倒錯的だが、あの瞬間彼を捕まえたと私は確信していたのだから。

 

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究極の愛なんて耳障りの良い話でもないし、愛する男を殆ど半身不随にしてまで手元に置いておきたいなんて欲求は理解し難いものかもしれない。しかし、私はこの映画にとても惹かれてしまった。結局のところ愛とは自己と他者の間に生まれた関係性の形なのだから、当事者同士にしか理解し得ない、いや当人もよく分かっていないものかもしれない。母に守られたいと思いながらも大昔に死んだ母の影に怯え続ける男と、一度強烈に自己の存在意義を照らされたためにそれを引きずり続ける女。理想と内に秘めた薄暗い願望は表裏一体であり、彼らは一本の糸の上に立っているかのような緊張感の中で傷つけ合いながら自己の中に相手を、相手の中に自己の居場所を獲得する。

好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ

(『夜長姫と耳男』/坂口安吾)

今までに、相手の意思を尊重しながらも自分の希望を叶えたくて何度駆け引きしてきただろう。結局どちらかが折れるしかなくて、不完全に消滅させてしまった自分の望みを思い出す。レイノルズとアルマは徹頭徹尾、殆ど殺さんばかりに相手に立ち向かう。彼らは自分にも相手にも決して妥協しない。そんな闘争の末に二人が辿り着いた境地は、私には眩しくて仕方がないのだ。

 

母の幻影に逆らえず、彼女を投影したドレスを生み続けるためにレイノルズが作った城は、アルマによって破壊し尽くされた。彼は、アルマが築き上げた城の中で囚われの身となった。それでも、レイノルズは今まで暗闇で怯えてきた母の幻を見ることはなくなり、代わりに母親の生まれ変わりのようなアルマに一生愛される。衝突と破壊を繰り返した先には二人だけにしか理解できないであろう世界が確かに生まれた。この先、レイノルズが元の状態を望んでこの城から出ようとする日が来たら、きっと彼女はまたあの毒を使うのだろう。愛する男を永遠に留め置くために。

 

アルマは、事の顛末をレイノルズの主治医に語る。もしかしたら、今まで私が見ていたのは全て幻の織りなす綾だったのかもしれない。この物語は彼女の独白で幕を閉じるが、果たして彼らのお城はどんな最期を迎えるのだろう?

もし治らなくても、明日彼がいなくても構わない。彼は私を待っている。

来世で、安らぐ聖なる地で。

この世 次の世 その次の世

そこへ続く道になにがあろうとも

私はひたすら耐えて再び彼のもとへ

彼に恋することで人生は謎ではなくなるのよ