森の入り口

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福永への凄まじいリスペクト:大林宣彦『廃市』(1983)

大林宣彦の映画『廃市』を観た。

ずっと、かれこれ5年近く見よう見ようと思っていたのだ。それを理由をつけては後に回しているうちに時間が経っていた。大林宣彦が如何に福永武彦を愛しているのか、氏の『草の花』への想いを伝え聞いただけでもよく分かってしまい、そんな人が撮った福永の世界はどんなものなんだろうと恐れおののいてしまったのだ。

見苦しい言い訳はやめにしよう。

 

火事で焼けた町のニュースを聞き、男は自分が10年前に一夏を過ごしたその町のことを思い出す。卒業論文執筆のためにある地方の町にやってきた江口(山下規介)は、快活で芯の通ったような下宿先の娘、安子(小林聡美)と親しくなる。掘割がめぐらされ、水に囲まれた町を好ましく思う江口に対して安子は「こんな死んだ町、大嫌い」と険しい表情を見せる。安子には姉夫婦がいると聞くが、彼らは姿を見せない。町で過ごした最初の晩に水音に紛れて耳にした女性の泣く声を、江口は安子の姉の郁代(根岸季衣)だと考え、美人と評判の郁代に一目会いたいと思う。

江口はある日郁代の夫、直之(峰岸徹)と会い、彼ら夫婦が別居していることを知る。快活でありながらどこか暗い影を宿す直之は、いずれこの町は廃市になるし、今でももう死んでいるのだ、と安子と同じようなことを口にする。傍にはどこか幸の薄そうな美しい女性、秀(入江若葉)がついており、直之と暮らしているという。一方、強引に安子の後を追った江口は寺で暮らす郁代に出会う。この夫婦は互いを愛していると言いながら、他方は相手の想いを信じられず、もう一方はそれに反論する気力を持てないのであった。

滅びゆく町にあって未来を持てず、愛する女とも向き合えずに刹那的に今を楽しむ直之と、彼のために身を引く郁代、そしてそんな二人の板挟みになる安子の不安定で脆い関係は、悲劇的な結末を迎えることになる。

 

 

かつて『廃市』を読んだ時、ワンルームの静かな部屋だったのにも関わらず水音が聞こえたような気がした。あのときたしかに胸に浮かんだ風景が、音が、目の前に現れた。気怠い夏の昼下がりが永遠に続くような頽廃と美、狂気の同居する『廃市』の世界そのものだった。語り手と一部のキャラクターに名前が付けられている以外は、殆ど脚色のない福永の描いた話そのままの映画だった。映像となったことで、掘割に囲まれたあの町の閉ざされた感覚はさらに浮き彫りになり、安子や直之の語る「死んでいるような町」の顔を覗かせる。

 

観ていると、大林宣彦が些細な脚色や小道具に潜ませたに違いない、福永武彦へのラブレターとも思える敬意を感じられた。それについて書いておこうと思う。

 

ショパン

柳川に到着した明くる日、江口が息抜きに散歩しようと外に出たところで習い事帰りの安子に遭遇する場面だ。彼女はピアノを習っていて、楽譜を抱えているが、小説ではそんな設定はされていない。安子がここで抱えていたのはショパンの楽譜だった。

福永武彦ショパンといえば、『草の花』が真っ先に浮かぶ。この作品においてショパンのピアノ協奏曲第1番は主人公とヒロインを結ぶ重要なピースになっているし、物語の最後までショパンは纏わりつく。

そして、『草の花』と大林宣彦は切っても切れない関係にある。何しろ小説家を目指していた時分に「まるで自分が書いた小説じゃないか」と衝撃を受け、丸々暗記するほど読み込んだ小説であるのだ。ここでわざわざ安子にショパンを持たせたのは、生涯の書となった『草の花』へのオマージュではないだろうか。

 

○心の中を流れる河

(中略)…町はもうすでに遠く、列車は晩夏の原野を喘ぎながら走っていくばかりだった。そしてその時、僕は町が崩れ、取り返しのつかない時間が過ぎていく音を心の中を流れる河のように聞いていたのだった。

上に引用したのは映画の最後に流れるモノローグである。一夏の淡い思い出は、ある事件によって無残なものとなってしまった。全てが終わり、安子と三郎に見送られて列車に乗った江口は、遠ざかるホームを眺める。このモノローグは概ね小説の最後と同じだが、一部に特徴的な箇所がある。それがこの"心の中を流れる河のように"だ。何が、と言われればこれはもう直感でしかないのだけど、福永武彦が1956年に発表した中編に『心の中を流れる河』という作品がある(これは全集第4巻に収められている)。寂代という北海道の架空の土地を舞台に、戦時中に憲兵の圧力に屈して教会を閉じてしまった過去の自分をペトロになぞらえて悔やむ牧師と、夫と別れようと姉夫婦の元に身を寄せる義理の妹を通して信仰と欺瞞を描いている。

「わたしはこうして河の音を聞いているのよ。」

「河の音?」

「そうよ、河の音よ、」と梢が言った。

「でもひょっとしたら、わたしの心の中を流れている河の音かもしれないけど。」

(『心の中を流れる河』/福永武彦)

この作品で、寂代は娯楽もなく進歩を望まぬ医者や薬屋、問屋などの名士たちが住民を思うままに転がす停滞した町として描かれている。それはまるで『廃市』の町を見ているかのようだ。

今や町は殆ど消えかけ、安子もろとも幻となる。その決定的な場面において"心の中を流れる河"という言葉が使われていることに、想いを馳せてしまうのである。

 

○おまけ1:三郎!!!!

尾美としのりがいい味を出していた。小説では名前すらなかった下男改め三郎役として安子のお世話などをしていたのだけど、もう彼が映るたびにその目線、視線は意味ありげでつい引き込まれてしまった。この町に呑気に夢を抱く江口、安子の声にならない叫びを傍らでただ受け止め続けた彼が唯一爆発するのはラストだ。走り去る列車を追いかけて、江口にぶつけるのだ。

「この町では、みんなが思うとる人に、ちっとも気付いてもらえんとですよ!」

いやー参りました。

 

おまけ2:ヒロイン

安子役の小林聡美はもう愛嬌と仄暗さが絶妙なバランスで表裏になっていてやられましたね。三谷幸喜と並んで腕を組み合ったイメージが一掃されてしまった。

大林宣彦が語る福永作品のヒロイン像があまりに腑に落ちたので引用。

「福永さんの小説の主人公というのは草の花でも廃市でも、原作をちゃんと読めば、まず、ちっとも美人じゃなくて、やたら明るくてゲラゲラ笑うという少女なんですよね。で一方で、ギリシャ神話から抜け出たような美の化身、崇拝すべき相手が必ずいる。崇拝すべき、犯してはいけない神秘な美の世界と、非常に心休まる日常的な平安の中にあるものとの対比、それが福永文学の基本的な構造でしょ。」*1

 

○おまけ3:方言

小説では標準語で話す彼らだが(そもそも舞台が柳川とも断定していないのだから)、映画では柳川弁を操る。それについて大林宣彦は「文学の想像力の世界を、俳優という生身の肉体がやるんであれば、そのダイアローグもいっそ生身の肉体の生理を持ってきた方がいい」*2と語っている。福永文学に登場する抒情的で甘やかな人間たちの内部に巣食うプライドやエゴイズムの複雑な交錯を映像で表現するためにはそのどちらかを強調するだけではうまくいかない、と判断したからのようだ。

 

 

思い出が遠ざかり、全てが無になって初めて失われた時間への思いが募る。安子への想いに気づいた江口と同じように、観終わって何日も経った今でも私はあの死にかけの町を思い出すと胸が締め付けられる気がしてならない。